第2章「人的資源管理」をもう少し深く学ぶ
―「人に関する経営判断」を他人任せにできないのはなぜか―
会社が大きくなれば、人事・労務のすべてを社長一人で扱うことはできなくなります。しかし、「人に関する経営判断」まで他人任せにすることはできません。第1章では、会社の成長に伴い、社長自身が仕事をすることから、組織を通じて仕事をすることへ、経営者の役割が変わることを考えました。第2章の「人的資源管理」は、その組織を動かす「人」と、社長がどのように向き合うかを考える章です。
人事や労務については、「社会保険労務士などの専門家に聞けば済むので、社長が学ぶ必要はない」と思われるかもしれません。確かに、細かな規定を覚えたり、専門的な手続を自ら行ったりすることが社長の仕事ではありません。しかし、問題が起きてから「なぜ、それを前もって教えてくれなかったのか」と思っても、対応の選択肢がすでに狭まっていることがあります。専門家に相談するには、まず、相談すべき問題に気づかなければなりません。採用時の約束、賃金の決め方、日々の指示や指導など、何気ない経営判断が、従業員の生活や将来に大きく関わります。第2章は、こうした場面で社長が判断を誤らないための知識に焦点を当てています。
ここでは、法律の個々の規定や、人事制度の具体的な設計方法は詳しく説明しません。それらは公式テキストで学んでください。このページで考えたいのは、「なぜ、人事・労務は社長自身が考えるべき経営問題なのか」という問いです。その背景をたどりながら、第2章を読み解くための「見取り図」を描いてみたいと思います。
「人件費」として見るか、「経営資源」として見るか
賃金や教育訓練には費用がかかります。しかし、人に関する問題を、いかに人件費を抑えるかという視点だけで考えると、会社を動かし、顧客に価値を届けているのも人であることを見失ってしまいます。公式テキストでは、人的資源管理を、ヒトを単なるコストではなく、重要な経営資源として捉える考え方として紹介しています。人の知識、技能、経験、そして協力し合う力が、企業の競争力を支えているという視点です。
第1章で考えた「会社の内に何が蓄積されているか」という問いも、ここにつながります。設備を購入することと、それを使いこなせる人を育てることは同じではありません。社長には、「人にいくらかかるか」とともに、「人が力を発揮するために何が必要か」を考えることが求められるのです。
人を育てることを「投資」という側面から考える手がかりになるのが、ノーベル賞を受賞した経済学者ゲーリー・S・ベッカー(Gary S. Becker)らが発展させた「人的資本論」です。教育や訓練にかかる費用を、単なる支出ではなく、知識や技能を高めるための投資として捉える考え方です。新しい設備を買えば、会社に何が増えたかは目に見えます。一方、社員が仕事を覚え、難しい問題に対応できるようになっても、その成長は設備のようには見えません。しかし、見えにくいからといって、会社に何も蓄積されていないわけではないのです。社長には、今支払う費用とともに、その先にどのような能力が育つのかを見ることが求められます。

Gary S. Becker
人事は経営戦略と切り離せない
社長は「これからはチームワークが大切だ」と話している。しかし、賞与を決めるのは個人の売上だけ。これでは、同僚を助けるより、自分の数字を伸ばそうとする社員がいても不思議ではありません。社長の言葉と人事の仕組みが、違う方向を指しているからです。
こうした食い違いを考える手がかりになるのが、ノエル・M・ティシー(Noel M. Tichy)らによる「ミシガンモデル」です。採用・選抜、人材評価、人材開発、報酬を、経営戦略と一体で考えます。新しい事業を始めるなら、どのような人が必要で、その人をどう育て、何を評価するのか。人事は、決まった戦略に後から対応するだけの仕事ではないのです。

Noel M. Tichy
社長が何を語るかだけでなく、会社が何を評価し、何に報いるかによって、社員は「この会社が本当に大切にしていること」を学んでいきます。制度の設計を専門家に任せる場合にも、「どのような会社をつくり、どのような行動に報いたいのか」を決めることは、社長自身の仕事です。
人を雇うことには、なぜ特別なルールが必要なのか
人を経営資源として捉えるだけでは、人的資源管理を十分に理解できません。人には意思があり、生活があり、守られるべき権利があるからです。会社にとって合理的な判断が、従業員にとっても納得できるとは限りません。公式テキストは、労働に関するルールの背景に、労働者を保護するという考え方があることを説明しています。雇用関係では交渉力や情報に差が生じることがあり、働くことは収入だけでなく、健康や家庭生活にも関わります。そのため、両者が合意すれば何でもよい、という考え方だけでは扱えないのです。
労働契約、労働時間、賃金、安全衛生、社会保険などは、細かな手続の集まりではありません。人に働いてもらうことで、会社がどのような責任を引き受けるかを考えるための基礎です。「会社の都合だけでは決められない問題がある」と知ることが、判断の前に専門家へ相談する出発点になります。
労働法学者のオットー・カーン=フロイント(Otto Kahn-Freund)は、雇用関係に内在する力の不均衡を、労働法を考えるうえで重要な問題として捉えました。「この条件で働くことに同意しました」という一言だけで、その条件を当事者間の合意だけに委ねてよいとは限りません。仕事を失えば生活に困る人にとって、断る自由は、紙の上で考えるほど簡単ではないからです。人を雇う際に特別なルールが必要なのは、契約の向こう側に、一人の人間の生活があるためなのです。

Otto Kahn-Freund
社長の「公平に扱ったつもり」を、組織の「公平に扱われる仕組み」へ変える
会社が小さいうちは、社長が一人ひとりの仕事を見て、評価や処遇を決めることもできます。しかし、従業員が増えれば、全員を同じように見ることは難しくなります。同じ評価でも、「社長がそう決めたから」と言われる場合と、判断の基準や理由を丁寧に説明される場合では、受け止め方が変わるでしょう。
ジェラルド・グリーンバーグ(Jerald Greenberg)らによって発展してきた組織的公正の研究は、公平さを、処遇の結果だけでは判断できないことを教えてくれます。どのような過程で決めたのか。理由を十分に説明したのか。相手に敬意をもって接したのか。社長が「公平に扱ったつもり」であることと、従業員が「公平に扱われた」と感じることの間には、距離があるのです。

Jerald Greenberg
等級制度、賃金制度、評価制度、能力開発制度などは、何を期待し、どう評価し、どう成長してほしいのかを共有し、その距離を縮めるための仕組みです。ただし、制度をつくれば自動的に公正になるわけではありません。公式テキストも、評価者の能力やコミュニケーションの重要性を指摘しています。制度は、社長や上司の判断を不要にするものではなく、判断の基準を明確にし、その質を高めるためのものなのです。
ルールがあることと、実態が伴うことは違う
就業規則も雇用契約書もあり、勤怠管理のシステムも導入している。それでも、問題は起こります。制度に書かれていることと、職場で実際に行われていることが一致するとは限らないからです。
組織論の研究者であるクリス・アージリス(Chris Argyris)とドナルド・ショーン(Donald Schön)は、人や組織が「こう行動している」と説明する考え方(標榜理論)と、実際の行動を支配している考え方(使用理論)との間に、しばしばギャップが生じることを指摘しました。この考え方を人事・労務に引き寄せてみると、就業規則や雇用契約書に何が書かれているかだけでなく、職場で実際にどのような働き方が行われているかを見ることの重要性が分かります。

Chris Argyris Donald Schön
公式テキストには、労働時間の把握、管理職の扱い、固定残業代、業務委託など、形式だけで理解すると判断を誤りやすい問題が登場します。具体的なルールはテキストで確認してください。ここで共通して考えたいのは、「名称をつけ、書類を整えること」と、「職場で実際にどのような働き方が行われているか」は違うということです。
勤務の記録が整っていても、現場では無理な働き方が続いているかもしれません。外部の専門家が、職場の日常を常に把握できるわけではありません。会社の側が実態を捉え、必要な情報を伝えることも、専門家の力を生かすために欠かせないのです。
人の問題を「その人だけの問題」にしない
従業員が定着しない。ある部署で欠勤が増える。上司と部下のトラブルが続く。こうしたとき、本人の意欲や性格だけに原因を求めたくなることがあります。
社会心理学者のクルト・レヴィン(Kurt Lewin)は、人の行動は、その人自身の特性だけでなく、その人を取り巻く環境との関係の中で生まれると考えました。この考え方を職場に当てはめれば、職場で起きる問題についても、個人の意欲や性格だけに原因を求めるのではなく、仕事の配分、上司の接し方、評価の仕組みといった職場環境にも目を向ける必要があります。

Kurt Lewin
公式テキストがハラスメント、メンタルヘルス、休職などを取り上げているのは、事後対応の手続を知るためだけではありません。安心して働ける環境を、会社という「場」としてどう整えるかという問題でもあるからです。
第1章で触れた組織風土や心理的安全性も、ここにつながります。困りごとや体調の変化を相談できるか。社長に耳の痛い情報も届くか。問題が起きたときに対応することと、問題を生みにくい環境をつくることを、社長は結びつけて考える必要があるのです。
「採用してくれる会社」から「働き続けたい会社」へ
必要な人数を採用しても、短期間で退職してしまえば、経験や技能は蓄積されません。残った従業員の負担が増え、さらに退職者が出ることもあります。
組織心理学者のデニス・ルソー(Denise M. Rousseau)は、会社と従業員の間には、労働契約書に書かれた約束だけでなく、「会社は自分にこうしてくれるはずだ」「その代わり、自分は会社にこう応えるべきだ」といった、互いの約束についての認識があることに注目しました。こうした認識は「心理的契約」と呼ばれます。採用のために会社をよく見せる工夫だけでは、長く続く信頼関係は築けません。働き方の改善、柔軟な働き方、ハラスメント対策、仕事と生活の両立といった取組みも、従業員が会社に抱く期待や信頼に関わります。

Denise M. Rousseau
能力開発やリスキリングも、会社が必要な能力を確保すると同時に、従業員が成長し、将来の仕事を担うための取組みです。会社の成長と、働く人の成長や生活をどう両立させるのか。「この会社を、どのような職場にしたいのか」という判断は、社長自身に求められます。
第2章の「理解への見取り図」
第2章の知識を、経営者が考えるべき問いとして整理すると、次のようなつながりが見えてきます。
どのような会社をつくりたいのか
(経営理念・ビジョン・戦略)
↓
そのために、どのような人の力が必要か
(人的資源・人材戦略)
↓
人を雇うことで、会社はどのような責任を引き受けるのか
(労働関連法規・労働契約)
↓
何を期待し、何に報い、どう成長してもらうのか
(評価・処遇・能力開発)
↓
制度と実際の働き方は一致しているか
(労務管理・職場の実態)
↓
人の問題を、個人だけの問題として捉えていないか
(職場環境・組織風土)
↓
人が成長し、安心して働き続けられる会社になっているか
(人材育成・定着)
この「見取り図」を頭の片隅に置きながら、改めて公式テキストを読んでみてください。就業規則、人事評価、労働時間、採用・退職、ハラスメントなど、別々に見えていた知識が、「人の力を生かし、安心して働ける会社をつくる」という一つの経営問題の中でつながって見えてくるのではないでしょうか。
社長を目指す人に考えてほしいこと
社長が人事・労務の専門家になる必要はありません。しかし、相談すべき問題に気づき、助言を理解し、自社として判断するための基礎知識は必要です。「なぜ、それを前もって教えてくれなかったのか」と言わずに済むためにも、自分が何を知らないのかに気づくことが大切です。そして、第2章を学ぶ意味は、トラブルを避けることだけではありません。従業員が力を発揮し、会社の将来をともに担えるようにするためでもあります。
人事・労務を専門家に任せることと、人に関する経営判断を他人任せにすることは違います。公式テキスト第2章を、ぜひ、その違いを理解し、社長としての判断力を育てるために読んでみてください。